背景
錦秋楼事件とは、江戸時代後期の1843年に起きた浪士組の一件です。この事件は、将軍家が択捉島(現・北方領土)のロシアへの割譲を決定したことに反発した浪士たちが、幕府の役人である阿部正弘を襲撃したものです。
襲撃
錦秋楼とは、江戸城内にある防火用の建物で、阿部正弘はそこに宿泊していました。浪士たちは、手鍋(闇討ち用の武器)を持って密かに入場し、阿部を襲撃しました。それにより、三十六人の武士が死亡し、阿部も負傷しました。
裁判
事件の裁判は、天保14年(1843年)12月に開かれました。浪士たちは、例外的に、幕府に対して謝罪をすることで刑事責任を免れることができました。ただし、浪士たちは、江戸市中の「広坂泥棒」を自首することを条件に、それぞれ棄捨罰(無職・破門)・検非違使の糾問罰・斬罪などの刑罰が下されました。
今日の錦秋楼事件
錦秋楼事件は、日本の歴史において、反射神経的な暴力行為として語り継がれています。江戸時代末期は、開国政策の変革期であり、偏狭な閉鎖思想に固執して行動を起こした「尊王攘夷」派の浪士たちが、この事件を起こしました。
現在、錦秋楼は無くなってしまいましたが、江戸時代中期の防火管理に関する建物の遺構として、後世に伝えられる存在となっています。
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